#1
シシシという男がここで刺されて死んだのだという。街のいたる所に書きつけられている人名の故を、果物を売っていた女に尋ねたのである。粘質の土と藁が練り混ぜ合わされた砂漠色の壁面に、スプレー塗料で黒々と吹き付けられたXi-Xi-Xiの文字の下には、彼が死んだ日付だと思われる数字も書かれていた。
「書かなきゃ忘れちまうんだよ。この街ではあんまりにも人が死ぬから」
人の手首くらいなら容易に刎ね飛ばせそうなほど大きな包丁でもって、名画が収められていた額縁のようなパイナップルを縦半分に叩き割りながら、果物売りの女はそう言った。大きなパラソルが彼女と彼女が牽いてきたであろう荷台、パイナップルを処刑するために積み上げた木箱らを照りつける日差しから守っていたが、荷台に積まれた果物には羽虫が集り、この通り一帯になんとも言えない匂いを発していた。彼女から買ったカットパイナップルを食べながら、僕は再度訊ねごとをした。
「火葬場に行きたいんですが、場所は分かりますか?」
「火葬場? 旅行者が? なんの用向きで?」
「腹違いの弟が働いているらしいんです」
果物売りは腹違い、と言いながら、木箱の上に置かれたパイナップルに再度包丁を振り下ろしたあと、「あれに付いていくといいよ」と言葉を接いだ。彼女の視線の先へ目をやると、向こうの通りをひとりの男が歩いていた。若い男だ。その背には老人を担いでいる。彼はほとんど襤褸といってもいい布を腰に巻きつけ、分厚い唇を半開きにしながら、ゆっくりと進んでいた。担がれている老人も似たような格好をしていた。目は濁り、唇は乾き、身体の一切を若い男に預けているようだった。果物売りが「熱中症だろうよ」と言って、僕はようやくその老人が死んでいることに気づいた。
火葬場は川を挟むようにして建てられていた。薪に布や個人の思い出の品を焼べて、遺体を家族の目の前で燃やし、残った骨と灰は川に流してしまうのだとィェルボは言った。
火葬士たちは火葬場近くに設えられた小屋に住んでいる。六平方メートル程度の部屋に二段ベッドがふたつ。小さな窓からは陽射とともに火葬場の煙々しい空気が流れ込んでいた。
「母に似たんだ」ィェルボは言った。「あなたは父に似ている気がする。会ったことはないけど」
確かに僕は父に似ていた。ィェルボ——腹違いの弟に注がれた「視線」なる妙な名前の酒に少しだけ口を付けて、あなたのことは父が死ぬ間際に聞いたんだ、と告げた。
父が死んだのは今年の六月だった。病院のベッドの上で、ほとんど骨切れのようになっていた父は、異母兄弟の存在を僕に伝え、その”息子”に手紙を渡してほしいと要請した。僕は鎮痛剤の影響で途切れ途切れになる父の言葉を、出来損ないのパズルのように組み立てて、なんとかここにたどり着いたのだった。
「父はあなたに謝りたい、と言っていた。あなたの母への送金は何年も途切れていたとか」
「俺が生まれてこのかた、母が金を持っていたところなんて見たことないね」
「あなたのお母様は?」
「目を病んで、ここで燃やされた。十八年も前の話だ」
それから、ィェルボは自身の半生を語り出した。六歳で天涯孤独の身となったこと。この火葬場の川下で川底を浚い、燃え残った副葬品や金歯などを売って暮らしてきたこと。見ているうちに火葬士の仕事の勝手を覚え、十四歳で雇われたこと。
「寝る場所も、少しの金も、酒も手に入る。万々歳だよ。……煙草はある?」
僕が煙草を差し出すと、ィェルボは小さく礼を言って、煤だらけのハーフパンツからマッチを取り出し、火を付けた。僕は再度「視線」を口の中に含んだ。大の大人が飲むには甘すぎ、スイーツが好きで、粋がっているティーンエイジャーにはあまりにも強すぎる酒だ。
ィェルボは黙って煙草を吸った。器を用意するでもなく、窓の外に落とすでもなく、灰を床にさりさりとこぼした。ベッドの木枠で煙草の火をもみ消し、窓の外に吸い殻を投げ捨てた後、「手紙は?」と言った。僕はその質問に答えず、「この街を……フロントを出ないのか?」と聞いた。
「街を出る?」
「父は少しの遺産を残した。この街を出て、他の場所で数年やっていける程度にはある。手紙の中に小切手が入ってる。ここに来る前、少しだけここを回ったんだ。あなたが育った土地を悪く言うつもりはないけど、ここは、その……環境が良くないと思って」
ィェルボは僕の言葉を聞いて、少し驚いたような顔をした。その表情のまま、彼は「視線」が入った瓶を左手で持って、右手のグラスに注ぎ、喉が灼けるくらい甘ったるくて強い酒を一気に流し込んだ。それから、「家族なんだ」と言った。
「もうこの街が家族なんだ。足に根が生えてる。せっかくの申し出だけど、断ることにするよ。……手紙を」
僕は父に預けられた封筒をィェルボに渡した。彼はこの街のどこを見渡しても見つけ得ないような薄く儚い水色の封筒を、開くことなく眺めた後、マッチを擦り、火を付けた。
封筒の端に食らいついた炎が淡い水面をみるみるうちに侵掠する。わずかに残った炎を彼が吹き消した時には、逝かんとする父が息子に宛てた思いも、彼がこの街から抜け出す機会も、何もかもが灰になっていた。パパ、俺が燃やしたかった。ィェルボはそう言って、窓の方を向いた。陽光が彼の一筋の涙を通り、屈折した。僕はそろそろ行かなければ、と彼に告げた。「また会おう。いつでも来てくれ」そう返したィェルボと握手をした。川を浚い、幾人の遺体を燃やしてきた、象牙のような掌だった。間も無く、僕はその場を辞した。
ィェルボの訃報を聞いたのは、それから三年後だった。彼は盗人と間違えられ、群衆に袋叩きにあったのだという。その連絡を受け、呆然とした。しばらくして、その時開いていた本の余白にyi-el-boと書き入れた。今も、あの街のどこかに弟の名前が記されている。
#2
抜けてしまった前歯の空隙を埋めるように舌をあてがいながら笑うものだから、タイヤから空気が抜けるような音がする。その特徴的な笑い声から、彼はシシシ(Xi-Xi-Xi)と呼ばれるようになった。本名は誰も知らないし、本人も覚えていない。フロントでは戸籍は売り買いされる商品でしかない。
先日、シシシは死神から犬を借りた。真っ黒の毛はお世辞にも艶がいいとは言えない。が、立派な牙が備わっていて、筋肉質だ。それに、尻尾の付け根に稲妻型の傷が入っているのも気に入った。シシシは死神に数時間も頼み込んで犬――雨傘、という名前を付けられていた――を借り、十五分ほど撫でまわし、そしてリードを投げ捨てた。雨傘は後ろには目もくれず、大通りを疾走し、やがて見えなくなった。
「とうとう、奴も死神から借りちまったんだ」
「シシシも終わりだ、貸した金を早く取り立てねえと」
フロントの住人が口々に騒ぐ中、「なんでも持ってる死神から、なんたって犬なんかを」という言葉にだけシシシは反論した。
あいつはずいぶんあの犬っころがお気に入りみたいだったから。おれも欲しくなっちまったんだよ。
シシシは借りたものは返さない方がいいと思っている。返すくらいなら壊した方がよっぽどマシさ。一度おれのものになったのに、また他人のものに戻るなんて、馬鹿げてるだろ? シシシは経済的な価値を信じない。本来「価値」ってのはさ、相対的なものじゃなくて、絶対的なものなんだよ。おれは金もたくさん借りたけど、それは馬鹿なやつらが「金は大事」だと思ってるから借りてるんだ。でも、そんなものを借りるのはつまらないね。ィェルボから借りた、やつの死んだ母ちゃんの写真の方がよっぽどいいもんだ。
フロントに住まうものには、たいてい「後回し」の能力が備わっている。が、シシシのそれは別格だった。彼は借金返済も、抜けた歯の治療も、死すらも「後回し」にしていた。フロントの住人に彼が何歳なのか知るものは居ないし、本人も覚えていない。フロントでは年齢はパイナップルの蔕程度の価値しかない。
雨が降るたび、住人たちはシシシの死体を見たか訊ねあった。ある者は町外れのベンチで絞殺されていたと言ったし、ある者は死神がシシシを裏庭(ヤード)に引き摺り込んでいるのを見たと言った。しかし雨雲が消えるたびにシシシは酒場に現れ、金をせびり、たらふく酒を飲むのであった。
いつしかシシシの生死は賭けの対象になった。死神が雨雲と共にフロントに現れると、人々は酒場に集って「デッド」と「アライブ」と乱暴に噴霧器で吹き付けられた箱に、自分の名前を書き入れた紙幣を突っ込んだ。雨が止み、シシシが酒場に現れる。すると、「デッド」の紙幣が酒場中にばらまかれ、人々は思い思いに酒を飲むのだった。
ギャンブルは幾度も繰り返される。二十五回目ともなると誰もシシシの死に賭けなくなった。金でぱんぱんになった「アライブ」の箱。誰もがその箱の中身がぶちまけられることを心待ちにしていた。
もちろん、この「誰も」には、シシシも含まれていた。なんだよ、欲しがってるもんがあるのか? じゃあ、それはおれのだ。
雨が降り、裏庭(ヤード)から死神が現れた時、シシシは火葬場に続く大通りの真ん中に座り込んでいた。みなが彼と死神のことを見ている。シシシはシシシと笑った。おれが死んだら箱ん中にある金、貸してくれよ。死神は問いには答えない。持っているナイフをしっかと握り、シシシの腹にナイフを突き立てた。「返せ」。死神が横一文字にナイフを滑らせると、張られた布切れが裂けるように容易にシシシの腹が開かれる。血は出なかった。代わりに、シシシが今まで返さなかったものものが傷口から溢れ出た。金。酒。煙草。煙草を点けるための炎。紫煙。ィェルボの母の写真。鮮やかな紅色のカーテン。ニュークの形見の指輪。異国のコイン。球体。死んだ花嫁のためのドレス……
フロント中がシシシの借りた物品で埋まってゆく。通りという通りが固体液体気体で浚われ尽くした時、シシシの胸部に小さな穴が開いた。その穴から湿り気のある何かが顔を出す。それは犬の、雨傘の鼻だった。「ハウス」。死神が口にすると、臓腑を喰らい尽くすようにシシシの体内を駆け巡り、腹から雨傘が飛び出してきた。死神の雨はよりいっそう勢いを増す。びしょ濡れになったシシシの死体を、火葬場まで運んだのは黒い傘を携えた死神だった。
「犬はどこに?」
火葬士が聞くと、傘を閉じながら死神は言った。「形は可変だ。何より、濡れるのが嫌なんだよ」。火葬士はその傘の柄に小さな稲妻型の傷を認めた。
酒場では「アライブ」の箱が蹴り倒される。酒場の床は紙幣で溢れ、人々は浴びるほど酒を飲んだ。一人の男が酒場に現れ、床に落ちている酒に濡れた紙幣を二、三枚拾い、言った。これ、借りてくぜ。
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#1は2020年1月ごろに書いた掌編を少しだけ修正したもの。ハイパーハードボイルドグルメレポートを観て思い浮かんだことを書いた記憶があります。
#2 は2023年5月に通勤電車の中で書いたもの。はじめてスマホで掌編を書いた。大変ですね。
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