「39年住んだ家をね、ぶっ壊すのよ」

雑記

EV車が縦列駐車する際に立てる音のごとく静かに11月が終わろうとしている。側からどう映っていたかは分からないが、しんどいひと月であった。人と居る間はいいのだけれど、ひとりになると、どうも心がかゆくなる。四季の中では冬が好きだが、冬の自分はいっとう嫌いかもしれない。

どことなく感じる焦燥に似たなにかをかき消すために、雪の宿をがりごり食った。記憶がなくなるほど食いまくった。机の上に散らばる、食べた覚えのない雪の宿の袋の残骸を手に取り、「おれは……何を……?」と口にすることも多々である。

11月のはじめ、スーパーに出かけようとしたときのこと。「外から触った感じ、中に財布入っとるな」とバッグの中をあらためず、曲がった鉄砲玉のように外に飛び出した。飯やら酒やらをカゴに入れ、いざ会計に臨んだところ、財布だと思っていた四角くて長いものはハードカバーの本で、よりによって内田百間『大貧帳』だった。

かくして、お金を取り出す代わりに、お金がとにかく無いことが書き綴られている本を取り出す奇人になったわけである。今は自分を大バカ者だと笑い飛ばせるのだが、その時は「なんなんだおれは 些細な確認を怠ってこんな恥をかいている おしまいだ」となぜか大いに落ち込んでしまい、その日は何も口にせず寝た。文字にして改めて感じるが、明らかにこの頃の自分は安定を欠いている。

どうしてこうも情緒が不安定だったのかを考えたが、確たる理由は見当たらない。例えば選挙(支持している政党の候補が負けた)。例えば仕事(新しいことができていない感覚)。例えば未来(あまり明るくはなさそう)。例えば生活(洗面台の水がうまく流れない)。

自分にコントロールできるものとできないものを仕分けられず、勝手にもやもやしていたのかもしれない。現在は多少なりとも整理がついたので、雪の宿を購うことも少なくなった。選挙でコントロールできるのは自分の1票だけ。仕事は自分で動けば好きにやらせてもらえる。身の回りの未来は自分で明るくする。洗面台にはパイプユニッシュを突っ込めばいい。

先週、古本屋に行ったときのこと。本棚に隠れて姿は見えないが、店主と女性客がカウンターで話し込んでいる。聞き耳を立てるつもりはないのだが、広いお店でもないので、どうしても声が聞こえてしまう。お客さんが「引っ越さなきゃいけなくって。大変よ」と愚痴るように言った。店主が「引っ越しちゃうんですか?」と口にする。

「そう。1年間だけ。また同じ家に戻るんだけどね」
「え、戻るの? どういうこと?」
「古いからさ、大家さんが建て替えたいんだって。でももうこの年じゃ新しく家借りられないからさ」
「どうするの」
「ご厚意でね、次借りる家を用意してもらってるの。1年間はそこに住んで、建て替わったらまた戻るの」
「家が新しくなるってこと? いいですね」
「そうなのよ。もう39年も住んだ家なんだけどね」
「39年も」
「家をね、ぶっ壊すのよ」

店主が「え〜!」と驚くと、女性客は笑いながら言った。

「39年住んだ家をね、ぶっ壊すのよ。楽しみ。気持ちいいじゃない、なんか」

この言葉を聞いた瞬間に思った。人生、こんな感じにしたい。長く住んだ家が壊されるにあたって、「なんか気持ちいいじゃない」と笑う姿の見えない女性客を、ひどくうらやましく、そして格好良く感じた。「移り住むところは絶対にゴキブリが出ない家がいい」「私の目が黒いうちは絶対に家からゴキブリを輩出しない」と威勢良く喋り続ける女性客の声を背に、何も買わずに店を出た。帰り道、冷たい風が吹き抜けて身体の輪郭がぴしゃんとした瞬間、「12月は大丈夫かもしれない」と根拠のない自信を掴んだ。明日から12月である。

コメント

タイトルとURLをコピーしました