会計をお願いすると、カウンター越しに伝票が突き出てきた。少し水滴が垂れた紙に、飲み食いしたもの、会計金額、そして「タカハシくん」と記載されている。自分の苗字ではない。盗み見るように注文をざっと確認したのだが、自分の伝票ではある。名前を書き間違えたのかしらんと思って、そのまま店を後にした。
再度その店に行く。なんと言っても、なめろうがうまい。何度も足を運んでいる店である。店主の方が「お疲れさま」と挨拶してくれて、注文の後に数言会話を交わした。しかし、やはり店主がぼくのことを「タカハシくん」と呼ぶ。記憶違いか何かで、店主はぼくのことを「タカハシくん」と認識しているらしい。以前は自分の名を呼んでいただいていたのだが、こうもいいお店だと訪れる客も多いので、致し方ないことである。
最初に訂正すればよかったのだが、機を逃す。致命的にこういう指摘が苦手な性質である。なので、以降その店では「タカハシくん」として振る舞っていた。タカハシとして振る舞うのは骨が折れる。26年もの間、ぼくはタカハシではなかったから。
以前の自分なら1杯目はウーロンハイを頼んでいたのだが、タカハシはそうではない。レモンサワーを頼む。タカハシはレモンサワー→飽きたら梅酒で飲み会を回すタイプの人間。食べ物もそう。赤天だの油揚げだのを頼んでいたのだが、今はタカハシなので鶏肉のソテーを頼む。普通に魚より肉っしょ。タカハシなので、店主との雑談にも明朗に応じる。なにしろタカハシなのである。
そうしてタカハシとして会計を済まし、タカハシとして店を出る。店を出たのち、財布から免許証を取り出すと、そこに26年間過ごした自分の名前を認める。体と心がタカハシでなくなる瞬間である。
しかし困ったことが起きた。その店は駅と自宅をつなぐ店のちょうど真ん中に位置している。在宅勤務中、用向きがあり銀行に足を運ぶと、信号を挟んだ彼岸にて、店主が店先で看板やらを準備しているのをたまたま目撃してしまった。声をかけられたわけでもないのだが、途端に脳が「タカハシ」に作りかわる。
店の外でタカハシとして振る舞うのは初めてだった。店主はすぐ店に引っ込んだので挨拶などもしていない。が、帰り道はタカハシとして帰る。ほんとうは一刻も早く自室に帰って作業がしたかったのだが、タカハシは寄り道を楽しむタイプなので、必要以上に右折左折して帰る。公園のベンチにちょっと腰を下ろす。自販機のラインナップをまじまじと確認する。「ご自由にお持ちください」と書かれた箱の中身を真剣に吟味する。
在宅勤務に戻り、溜まったレスを返し、スケジュールの調整を行う。たいへん捗る。どうやらタカハシは各種の折衝が上手い。ちまちました作業を行う。捗らない。どうやらタカハシは「誰にでもできる仕事は自分以外の誰かがやった方がいい」と思っているタイプである。
そうやってタカハシの新しい一面を再発見し続けていくうち、タカハシでなかった頃の自我が薄れはじめる。「あとの人生はもうタカハシとして」と腹を据えかけたころ、再度店に訪れる機会に恵まれた。
「よく行く近所の店の主人に名前を間違えて覚えられている。家の周辺では『タカハシ』として生きねばならないので、コンビニで好きなものも買えず、とてもつらい」と友人に伝える。友人は「じゃあおれは『スズキ』として行くわ」などと軽口を叩いていたのだが、結局楽しく飲んだ。
その日の伝票にも「タカハシくん」と記されていた。「な? タカハシなんだよ」と目配せ。すると、友人が店主に「こいつ、タカハシじゃないですよ」と言ってくれた。ぼくはずいぶん悩んだのだが、いとも容易く伝えたなこの男は、と驚く。店主は「あ! そっか! ごめん!」と快活に笑って、それでしまいだった。その瞬間にタカハシは死んで、本来の自分が覚醒した。よって、いまこの文章を書いているのはタカハシではない。
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